FC2ブログ

「共に生きる」道徳の授業①

「共に生きる」道徳の授業(2) ~ 教師の思いを発問に込めて ①

 私たちは「共に生きる」をテーマに掲げ、道徳の授業のあり方につきまして研究を重ねています。平成29年8月に開催いたしました第54回教育者研究会は、県の教育長さんの参観もいただき、櫛形小学校の2クラスが、県北生涯学習センターを会場に公開授業を行いました。54年にわたる長い研究会の中で、全国初の試みでした。

 現在私たちは、来年度の第57回道徳教育研究会・茨城県県北会場の開催に向けて研究を進めております。前回のテーマ「共に生きる道徳の授業」を継続し、新たな提案をしたいと考えております。私たちの研究は、学校現場の先生方のご理解・ご協力がなければ成り立ちません。これまでも、私たちと先生方の共同研究という形をとり、授業そのものに焦点を絞り行ってまいりました。

 7月に、水戸で第56回の道徳教育研究会がありました。県教育長の芝原先生は、ご挨拶の中で小中校の道徳教育に触れ、「小中学校に道徳科が取り入れられようとも、結局はどんな授業を行うかがすべてである」とお話しされました。
私もここ35年以上「教育改革は授業改革です」ということをずっと言い続けてきました。戦後何度も何度も教育改革がなされました。そしてその都度、残念ながら挫折しました。その原因は、教育改革といいながら、日々行われる授業が、従来とさほど変わらないものに終始したからです。

 一言で言えば、依然として日々の授業が、抽象的注入的なのです。
 私たち県北教育者研究会は、その発足以来、ずっと授業のあり方を研究してきました。毎日毎時間、子どもたちと先生方の行う授業、その授業こそが大切であるという認識に立つからです。教師は、授業の中でこそ、自らの思いが伝えられると考えるからです。

 今日は、子どもたちにとっても私たちにとっても、なぜ「共に生きる」ことが必要なのか、また「共に生きる授業」とはどのような姿なのかの概略をお話しし、その中で、私が「授業は発問に尽きる」と考えている、その発問について、実際の授業を通しご一緒に具体的に考えてみたいと思います。

 「先生、道徳って何ですか。なぜ学ぶのですか」~皆さんはどのように答えるでしょうか。私もその時々にその答えを考えてきました。今やっとこの年齢で到達した答え、それが道徳とは「共に生きることを学ぶための時間」であるということです。

 昨年の秋、京都の紅葉を見に行きました。この「共に生きる」と刻まれた石碑は、法然院に向かう途中、哲学の道の横にある中学校の校門で見ました。「共に生きる」~どのような経緯でこの石碑が立ったのかは知りませんが、もしこの言葉がこの学校の教育目標であったのなら、すばらしい言葉だと思いました。私がこれからお話しするテーマと一致していたことを嬉しく思い、そのあとの法然院の紅葉がより輝いて見えた気がしました。

 共に生きるとは何か。子どもたちに聞かれたら具体的に答えなければなりません。
この絵本はレオ・レオニの書いた「ぼくのだ!わたしのよ!」です。三匹のけんか好きのカエルのお話です。「ぼくのみずだぞ」・・・・・かえるたちだけでなく、私などは特に強い自我を持ち、利己心のかたまりです。その利己心にまみれたかえるたちが、ある日の大水を契機にこのよう~みんなみんなおものよ~に変わります。

 みんなみんなのものよ。奪い合えば足りない。分けあえば足りる。お互いがちょっと譲り合えばお互いが幸せになる。みんなの幸せが私の幸せ。これが共に生きること。
どうすればこのような互恵、相互扶助の心になれるのかを学ぶのが道徳教育だと、私は考えています。

 さて、ではなぜ今、わたしが「共に生きる」を自らの生き方とし、また、これからの時代に生きる子どもたちに身につけてほしい資質としているのか、についてお話しします。

 今の世界、いや世界だけでなく私たちの生き方、心の中はどうなっているのでしょうか。世界の傾向は、私たち一人ひとりの心の傾向性によっている、私たちの心の集合体が世界の姿であるともいえます。私たち人一人ひとりの心が集まって、星の一つ一つが星座を作るように、世界を作っているのです。
 その世界の傾向は、どんな言葉で表されるでしょう。

 それは「異質な他者への不寛容」ではないでしょうか。自分および自分の国とはことなるものは認めない、許さないという傾向です。 私たちは一人では生きられない。人はそれぞれに違いがある。私たちは否応なく「異質な他者」と共に生きていかなければなりません。しかし、利己心故に、その他者に対しての「不寛容」、違いを認めないで排斥する状況がとても多くなっています。

 グローバリズム・・国を超えて地球をひとつのまとまりとして考えること。ラグビーでいうワンチームのことです。そのまとまりを分断しようとする様々な反グローバリズムが目立っています。自国中心のCO2の排出が地球を壊そうとしています。
16歳の少女・グレタ・ターンベルクさんの呻くような訴えが耳から離れません。お金のこと経済活動ばかりを優先し、私たちの未来を奪うあなたたちを、私たち子どもは決して許さない。I’ll never forgive you。何時までもそんなことが言えますね。How dare you。
道徳も同じかも知れません。私たちは善くなろうとしているのに、あなたたち大人は、話し合っているばかりで、なぜきちんと解るように教えてくれないのですか。How dare you。

 ダイバーシティとは、人種、宗教、性別、価値観、ライフスタイル、障害等の多様性をいいます。

 「アイヌ施策推進法」が成立したのは今年の春です。とはいえ、アイヌ民族への差別的な言動は減っていません。アイヌの人達が民族の誇りを持って生活できる社会はまだ実現できていないのです。

 いまだに、福島への風評被害は続いています。
パパママもうしません、ごめんなさいと書いて、幼い命を奪われた結愛ちゃん・・・。心愛ちゃんも、詩織ちゃんも~寒さに震え、胃の中に何も入っていない状態で死んでいきました。母親が夜遊びしたいという自己中心性、幼い精神性の父親による虐待、育児放棄で。

 子どもたちもまた「異質な他者」への不寛容が見られます。発達障害の子どもたちへの偏見、最近では、知能指数が非常に高い、神から与えられたという意味での「ギフテッド」という超天才の子どもたちの生きづらさが話題になっています。異質ゆえに排斥される子供たち。その子たちがいじめに会う。

 ご存知のように、今回の「道徳科」創設には、いじめ対策の意味もありました。痛ましい、子どもの自殺の裏側に潜むいじめの実態。もちろん少数ですが、それに加担する教師もいます。
 
 共に生きる社会とは、異質な他者に対して寛容な社会を言います。お互いが違いを認めあい、多様な生き方が選択できる社会なのです。このように「共に生きる社会」の担い手としての子どもを育てたいというのが、研究テーマ「共に生きる道徳の授業」なのです。
(続く)

スポンサーサイト



震災詠八首

震災詠八首

今夜またあるかも知れぬ大地震リュック背負ひて花の種蒔く 

町に入る私鉄の鉄橋今はなく痩せたる川に鮎の上らず  

たつぷりと水をふふみて剥かれたる福島の桃 色変わりゆく

好きなだけ掘れとスコップ渡さるる出荷停止の解けぬ竹の子 

向日葵のごとき帽子を胸に抱き少女のうなじ黙祷に折るる 

引き上ぐる網の魚の感触を笑顔で語る船なき漁師

悠々と磐城平を雲の行く還らざるひと還れざる人

窓閉じて帰還状況聴くバスの後部座席に煎餅の音

震災詠十二句

震災詠十二句

誰が統ぶやこの荒涼の春の惨  
            
渚より蛍となりて帰り来よ 
    
捜す手の祈る掌となる秋立つ日 
    
荒涼の春となりけり放れ牛  
   
鉄橋の落ちて鮎なき川となる
     
故郷へ線路途切れて秋の雲 
    
祈りもて陸奥新酒酌みにけり 
    
烏瓜手繰るが如く友の逝く 
          
三月は悲の月十日我が生る 
   
春寒ヤ下ノ渚二居リマス賢治

園舎なき空をただよふ石鹸玉

原発や白詰草に遊べない

杠葉(ゆずりは)10首

杠葉10首

鳥の糞に混じりて落ちた種だらう なにやら芽生ふ室外機の横

ユズリハよと妻が気づく 違ひない光沢の葉の付け根が赤い

早いうちに抜けばよかつたここまでに伸びてしまへば愛着も湧く

杠葉と知ればなほさら抜けはせぬ多賀中学校の記念樹なれば

多賀中は吾の最後の勤務校その玄関に杠葉はある

杠葉の大樹の下に酔茗の詩あり生徒の読むことのなく

ユズリハは譲り葉とう吾は子に譲れるものがあるのだらうか

クーラーの室外機を傾けて張る根は太くたくましくある

道にまで枝を広げて葉を散らす幹をやむなく切ることにする

杠葉が泣いてるみたいと妻が言ふ 切り口に湧く樹液こんこん

親子で考える道徳10 泣かないで、強い子ね~泣けない子ども

泣かないで、強い子ね~泣けない子ども

 よくできたわね、泣かないでえらいわね、お母さんとても助かるわ、何でも一人でできるから・・・
子どもは叱らずに、ほめて育てましょうと言われます。そうだとしたら、これらの言葉はまさしくほめ言葉、
子どもに自信を摘持たせる言葉ではないのでしょうか。
そうとは言えないのです。子どもをほめたり、認めたりしているこれらの言葉も、ある状況の中では、
子どもに大きなプレッシャーをかけたり、親子の関係を断絶したりすることもあるのです。

 ある母子が相談に来ました。夫が数年前に他界した後、
夫の親せきとの人間関係等で悩んでいる母親の相談でした。
相談と言っても、母親は、大変ものの見方や考え方がしっかりしている方で、
テキパキと物事を処理しているように見えました。
余りにも完璧すぎるように見えることが、私には不安でしたが。母親が話している間、
小学六年生の女の子は黙って話を聞いていました。この子も母親に似て聡明そうな子でした。
数回の相談の結果、次週からは相談をやめてもいいだろうと考えていました。
その最後の相談の時でした。母親が、突然激しく泣き始めました。
夫のなきあとの数年間を、気丈に健気に生きてきたその強い気持ちが揺らいだのでした。
辛かった分だけ、その嗚咽も深いものでした。
黙ってそれを見ていた女の子が、母親に聞きました。

「お母さん、泣いてもいいの?」
この子は今まで泣けなかったのです。
ここ数年、母親が突然の環境の変化に必死に闘っていたことを知っていたのです。
小さいころから泣いてはいけない、と教えられていたのかもしれない。
どんなに苦しい時にでも、泣かずにいるとほめてもらえたのかもしれない。
「あなたは強い子ね、お母さん、あなたのことが大好きよ。」
この子はお母さんに褒められたくて、母親を喜ばせたくて、泣きたくても泣けないでいたのです。
ここにきて初めて見る母親の泣く姿。泣いてもいいんだ。
堰を切ったようにその子は泣き始めました。
泣いている母に抱かれ、女の子も思い切り泣きました。
この時の相談以来、二人には会っていません。
でも彼女たちは母子関係を好ましいものに変え、
二人で(時には泣きながら)厳しい環境に立ち向かっていることでしょう。
プロフィール

加藤 宙

Author:加藤 宙
俳句や短歌,日々の思い等をつぶやきます。絵本を好んで読み、「幸福とは何か」「わかるとは何か」「祈りとは」などについて考えています。日が暮れる頃、美味しい肴で至福の時を迎えます。「塔」短歌会。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
プロフィール

加藤 宙

Author:加藤 宙
俳句や短歌,日々の思い等をつぶやきます。絵本を好んで読み、「幸福とは何か」「わかるとは何か」「祈りとは」などについて考えています。日が暮れる頃、美味しい肴で至福の時を迎えます。「塔」短歌会。

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR